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日本のなかの中国 − 横浜編

中華街のはじまり

 一衣帯水、千年以上に及ぶ長い日中交流の歴史を庶民の生活レベルで見れば、概略通史にはいまだ載らない交流の痕跡があります。STV-JAPAN取材チームは、神奈川県横浜市を取材しました。

 横浜の観光地として真っ先にあげられるのは、中華街です。近年、電車路線が整備され、東京の渋谷から元町・中華街駅まで35分ほどでいくことができます。中華街は、中国人の街です。その歴史は古く日本が、武家政権の封建制を脱して、近代国家建設に転回するその時に、中国人は日本に降り立ち、街を形成していったのです。日本の歴史区分では、江戸時代から明治時代への移行期にあたります。
 明治時代初期、当時の外国人の風俗を描いた絵画には、アメリカ、イギリス、フランスなどの西洋人に混じって中国人が多数描かれています。しかし、おそらく現在の日本国民のほとんどが学ぶ教科書には、この当時の中国人の存在が描かれていません。通史という巨視的視点では落ちてしまう事柄なのでしょうか。それでも、地方史という視点にたって中華街の成り立ちに目をこらせば、近代国家建設に中国人が大きく貢献したことがみてとれるでしょう。
 1854年の日米和親条約締結でしょう。続いて1858年アメリカ、オランダ、イギリス、ロシア、フランスの五カ国と修交通商条約を締結します。これによって、江戸幕府がかたくなに守ってきた海外との交易禁止政策、「鎖国」を廃止して海外に門戸が開かれたのです。この時、外国人の居住が許された地域のひとつが横浜でした。とりわけ、横浜は、首都江戸(現在の東京)に近いところから、多くの上級クラスの商人、政府関係者などが、拠点をかまえることになります。

西洋化する日本人

 真夜中にたたきおこされたに等しい日本人が、どのようにして言葉も風俗も異なる外国人とコミュニケーションがはかれたのでしょうか。西洋人にとっては、既に経験がありました。中国、とりわけ香港を基地とした経済活動です。横浜にやってきた西洋商人のほとんどが中国人をともなっていました。開港直後、西洋の言語を理解する日本人は絶無といっていい時に、筆談であれば、通じる中国人が仲介者としてあったのです。
 言葉は文化を伝えます。中国人は、為替取引など海外との交易には欠かせない商業知識、西洋人が売買の需要などに関する知識も伝えたでしょう。そのような中国人の業務を「買弁」といいました。現在の感覚では、コンサルタントとかバイヤーとでもいうのでしょうか。
 日本人にとって、最初は、恐る恐るであったものが、西洋からもたらされるめずらしい文物、生活を便利に快適にするものとして、受け入れられるようになると、居留地は好奇の対象となり、全国から見物に来る人が続々とくるようになります。最初は、西洋人の仲介業務をやっていた中国人が多かったのですが、次第に日本に居をかまえ、唐物といわれる西洋式の文物の製造販売の業務に進出する中国人があらわれてきました。洋館建築、ペンキ製造、西洋家具製造、ピアノ製造、英字新聞の印刷、洋服仕立て、レモネード製造など。好奇心旺盛な日本人に歓迎され業務も拡大していきます。中国人の経営者に日本人の雇員というのはけしてめずらしいことではありませんでした。庶民の間では、そのようにして日本社会での西洋化が浸透していくのでした。
 1870年代後半になると横浜の中国人人口は毎年数百万人単位で増え続け、91年には3347人、これは横浜居住の外国人の6割強を占めるようになります。当然、外国人居留地でも、中国人が多く居住する街が形成されます。それが横浜中華街です。

春節祭

 中華街の中心は関帝廟です。三国志に登場する英雄関羽を「商売の神様」として祀った廟です。日本の正月気分が冷めてなんとなく商店街がさみしくなる頃が中国の正月春節祭になります。廟を中心に祝舞遊行(パレード)がくりひろげられます。爆竹がはじけ太鼓が打ち鳴らされシンバルが活気づけます。龍舞、民族衣装で扮装したキャラクターのパフォーマンス。まるで中国の都市に迷い込んだような幻惑を覚えます。
 いま、春節祭は横浜市の代表的観光イベントとなっています。中国の祭りを楽しもうとする日本人でわきかえります。

中華義荘

 江戸時代末期から中国人が日本に居住していたことを何よりも雄弁に物語る施設が中華義荘です。中華街を見下ろす高台の一角にある中国人の物故者を祀った寺です。
 中国式の門をくぐり階段をのぼりつめると日本の寺院とはまったく異なるレンガ建築の廟が目にはいります。廟は、市内に現存する近代建造物としては最も古く、横浜市の有形文化財に指定されています。真ん中に空間をおいた廻廊式建物で、奥には、中国帽をかぶった地域菩薩が安置されています。廟を抜け一段高い敷地に墓地が広がっています。
 中華義荘は、1874年に中国人の墓地として設けられました。当初、横浜で死亡した広東省出身者が、柩船で帰国するまでの仮の墓地でしたが、1920年代中国大陸が激動し、柩船が途絶えるようになってからは、ここを永眠の地とした故人がねむっています。中国と日本の狭間で事業拡大の栄達に往生したひと、あるいは苦難のなか困苦のうちに亡くなったひと、ともに異郷の地を終の棲家とした先人が魂が安らぐところです。近代日本の夜明けにはたした役割は大きかったとねぎらいの言葉をかけてやりたい思いに駆られてしまいます。境内には物見遊山に訪れる観光客の姿はなく、静かに読経がながれ、時に親族の墓参におとずれた人が廟の中に消えていきました。

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