映像設計シアター

日本のなかの中国 − 鎌倉編

白鷺の池

 JR北鎌倉駅は、週末には、若い人から高齢者まで行楽客の乗り降りで、にぎわっています。北鎌倉駅から鎌倉駅まで徒歩で歩くには丁度手頃の距離で、途中、寺院仏閣に拝観して回る周遊コースとしてはうってつけです。この北鎌倉駅に隣接してあるのが円覚寺です。
 線路の傍らには白鷺の池があります。この池も線路が敷設されまでは円覚寺の敷地とひとつづきになっていました。
 「白鷺の池」。そのいわれをたずねるとそこに中国、宋時代の高僧の姿が浮かんできます。

 時の行政府「幕府」が鎌倉にあった時代です。鎌倉の都の郊外、まだ草深い池のほとりにあらわれたのは、26才の若き権力者北条時宗と蘭渓道隆(1213〜1278)です。
 蘭渓道隆。宋の西蜀の出身で、1246年来日、執権北条時頼の帰依を受け、建長寺を開山し、時頼の強力な後援によって京都建仁寺の住職にも就任しました。
 禅は密教とともに伝えられていますが、禅に特化された形で日本に伝えられたのはこの蘭渓道隆がはじまりとされています。時宗の父、時頼は建長寺創建から三年後、蘭渓道隆を戒師として出家(僧になること)しています。道隆への傾倒がうかがえます。中国僧が指導した禅の教えは、後に日本的文化といわれる「茶道」「華道」「造園」などにも深い影響をもたらします。

 第一次蒙古軍(中国は蒙古=モンゴル人が支配する元の時代になっていました)の来襲、文永の役といいます、国難に至り、中国からの渡来僧ということで道隆にスパイの嫌疑がかかります。
 文永の役以前から滞在している中国人とはいえ西蜀のひとです。しかも、時の権力者の庇護下にある僧にそうやすやす嫌疑をかけるというのは、あるいは、関東鎌倉幕府の政策をにがにがしく思う流れの者からの工作があったのかもしれません。結局、国外追放でもなく、道隆は甲斐(今の山梨県)に配流されます。
 道隆が再び鎌倉に戻ったのは文永の役から4年後。執権は時頼から息子の時宗にかわっていました。白鷺の池に立った道隆は、66才。すでに老境といってもいい年齢でした。

 時宗は、文永の役で戦死した日中双方のおびただしい戦死者を供養する寺院建立を思い立ち、その適任者として道隆に委嘱したのでした。ふたりが、寺院建立の適地を相談しているとき、鶴岡八幡宮の八幡大神が白鷺に変身し、この池のほとりに導いたといいます。
  この時、道隆に啓示があらわれ、指をさしました。そこを掘ってみると円覚経を納めた石櫃があらわれたという伝説が残っています。そんなわけで、二人がたたずんだ池を「白鷺の池」とし、寺号を「円覚寺」としたとしました。
 池の奥には、鬱蒼とした森が、まるで山の懐のように広がっていたのでしょう。戦死者を回向するにも、求道者が坐禅の修行を研鑽するにもいい環境であると見たに違いありません。しかし、道隆に死期が迫っていました。寺院の伽藍建立計画に着手した矢先、体調を崩し、寝付いたまま帰らぬ人となったのです。

 「白鷺の池」は小さい池です。秋になると池畔の楓が紅葉し日本庭園の情緒をたたえ、観光客の目をなごませてくれます。しかし、北鎌倉駅に降り立った観光客は、きょうの周遊コースをどのようにするかに余念なく、中国人の高僧の姿に思いをはせる人はまれです。
 この時代の中国では、唐から宋へと続いた古典的中国文化の爛熟期が終わりを告げ、モンゴル人を皇帝とする一大帝国元王朝の版図拡大の気運にもえていました。それもあって、宋の知識人が、日本へ渡ってこなければならなかったという事情もあります。
 蘭渓道隆の他にも、兀庵普寧(ごったんふねい)、円覚寺の開山となる無学祖元は有名ですが、個人名が記録されていないたくさんの渡来僧や職人がいたことがわかっています。それらの人がもたらした文化を「唐様」、「唐物」といい、日本文化風俗のひだひだに織り込まれることになりました。 鎌倉時代、横浜と同様、庶民レベルで中国文化をとりいれる機会が潤沢にあったのです。

「日本のなかの中国」の経緯

 これまで二回にわたり解説した「日本のなかの中国」は、映像になっています。STV−JAPAN制作「中国と横浜」です。この番組は、衛星放送を通じて中国全土に放映され、日本の関係者にはDVDで提供されました。
 この作品制作は、地方都市単位でしかもプラス志向での中日友好関係促進を考える手がかりをさぐるといったテーマで企画されたものです。横浜市市長の好意と市当局の支援、また、神奈川テレビから素材資料などの提供により、本作完成となりました。感謝いたします。
 これまで一般に知られた「海外のひと向け日本紹介」とは視点を変え、漠然とした「海外のひと」ではなく、しっかりと「中国のひと」を意識して地方の何を伝えるのか、を考える時、徐テキミン氏の「日本紹介」は参考になります。これまでの常識的理解とは違う「日本」が浮かび上がってきます。漠然と「日本文化」と呼ぶとき、実はその日本文化の細胞のDNAのなかに中国文化が織り込まれていることを発見して驚かされます。日本と中国が同根の文化の根を持っていることとそれぞれの風土の中でそれぞれの成長をはたしたことによる違いを探り当てることは、これからの日中交流の基礎知識として必要なことかもしれません。
 幸い本作は、中国国内のテレビ局にも好意的に受け入れられ、全土放送が実現し、DVDは、上海の旅行機関に配布されました。
いわばその副産物として映像監督の清水照信氏にシナリオから改稿して起こしていただきました。
 みなさんが実際に横浜や鎌倉に行けばまた新しい発見ができるかもしれません。そういった発見の積み重ねが、地道な(あるいは現場的実際的な)中日のコミュニケーションの手がかりを増すことになるだろうと思います。STV−JAPANの取材はこれからも日本の地方に分け入り、放送番組として制作し続けます。ご期待ください。

 DVD「中国と横浜」は、中国語版、中国語日本語字幕版ともに愛華で発売しています。

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