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中国のなかの日本 − 横浜編

六浦

 港は海外に向けて開かれ、商業交易、文化移入の大きな窓口です。明治維新により海外に開かれた門戸は横浜でした。中世、鎌倉に行政の中心、鎌倉幕府があった時代、港はどこだったのでしょうか? 横浜からおよそ15キロメートル南にくだった六浦こそが行政府に直結する港だったのです。
 神奈川県歴史博物館が鎌倉の港について端的にまとめているので引用します。

北条氏は、鎌倉に和賀江島、武蔵国金沢に六浦津と呼ばれる港を開き、中国大陸や朝鮮半島との交流を積極的にすすめましたので、鎌倉は国際港湾都市としての性格をもつようになりました。北条氏が中国から招いた禅僧により、鎌倉には数多くの禅宗寺院が創建され、来朝僧や帰国僧によって多くの新しい文化がもたらされ、宋・元様式の強い鎌倉文化が形成されます。

称名寺

 六浦の地名を知らない人でも八景島シーパラダイスといえば、「ああ、あそこか」と了解する人は多いでしょう。六浦駅は京浜急行逗子線にあるのですが、歴史を尋ねるには、京浜急行本線金沢文庫駅で降ります。
  駅から徒歩15分ほどで、称名寺赤門です。赤門をくぐれば、桜並木の参堂が続き、参道の一直線上に仁王門、反橋、平橋、金堂が配置されています。仁王門から向こう称名寺を取り囲む森を含む10ヘクタール余が、自然のままそっくり市民の森となっています。ビルや住宅が櫛比した京浜地区にあって、オアシスのような空間になっています。
  豪快な仁王像をながめ門をくぐれば、眼前に浄土式庭園が広がっています。周囲の丘の緑が映じた阿字ケ池にかかるまさに紅一点とでもいうべき朱塗りの丸橋(反橋)が池の中にある小島にかかっています。平橋は取り払われ、見ることができません。池では野鳥が羽を休めていました。ゆったりとした時間のなかに身をおいたここちよさです。散策に訪れた老夫婦や子どもと一緒のお母さんの表情は、観光地特有の緊張した笑顔はなく、おだやかです。
  浄土式庭園は、平安時代末期浄土教の普及により貴族や豪族の寄進で作られた西方浄土はかくあらんといった、今風にいえばいやしの空間なのです。同系の庭園に京都宇治市の平等院、岩手県平泉町の毛越寺があります。
 称名寺は、金沢北条氏一門の菩提寺で、1258年金沢氏の祖とされている北条実時(1224〜76)が、六浦荘金沢の居館内に営んだ持仏堂から発したと推定されています。その後、称名寺の基礎が定まるとともに伽藍の整備が着手され、実時の子、顕時の時代に弥勒堂、護摩堂、三重塔などが建立され、ました。さらに顕時の子、貞顕は伽藍の再造営を行い、1329年には、苑池を中心として弥勒来迎板絵(重要文化財)金堂を初め講堂、仁王門など、七堂伽藍を備えた壮麗な浄土曼荼羅にもとづく伽藍を完成させたのです。貞顕が残した文書には、築庭技術者として京から性一法師を招請したとあります。性一法師がどのような経歴を持つ人物なのか定かでありません。しかし、西方浄土への憧憬とはとりもなおさず中国仏教への希求であったことは明らかであり、その後、枯れ山水などをあしらった禅風とも武家風ともいわれる宋風庭園へと移行していくのです。宋風庭園を最初に築庭の技術指導にあたったのは、宋からの渡来僧や帰国僧でした。

日宋交易

 日向山、稲荷山、金沢山が寺院を取巻いています。いささか急坂の金沢山にわけいれば、頂上は八角堂広場となり、六浦の港を展望することができます。
 眼下には、ビルのまにまに小嶋を散見し、いまは軒を連ねるわずかな平地の多くもかつては湾の入り江になっていました。中世この丘の上から見下ろせば、係留された宋船や中国大陸に出航する日本の和船などを眺めることができたはずです。
 六浦港は、中世の一時期、海外につながる拠点であったことをしのぶことができるでしょう。日本の鎌倉時代は、中国では、南宋(1127〜1276)の時代にあたります。臨安(現在の杭州)が首都でした。行政府の中心が経済活動においても中心となり富の集積がはかられるのは、アメリカなどの例外をのぞいて古今東西同じ原理がはたらきます。杭州は南宋の首都になったことで栄え、このころ杭州を訪ねたマルコポーロは「世界で最も美しく華やかな町」と絶賛しています。日本でも中国でも共通してある都市設置における最大の変化は、これまで内陸部にあったものが港湾部に移ったということに他なりません。杭州は太平洋につながる銭塘江を擁し、船舶を通して商業活動は広くヨーロッパに達していました。
 杭州を地図で見ると上海から海沿いに西南へ下っておよそ200キロの地点にあります。近代に入り上海は中国第二の大都市として興隆します。時代の遷移が、六浦と横浜に重ねるとその相似に驚かされます。現在、杭州は都市環境も整い、中世宋代の文化遺跡をはじめ町並みの景観にもその名残をしのぶことができます。
 一方、日本における民間交易も活況のなかにありました。鎌倉時代以前の中国大陸からの文化の招来は大和朝廷の公式交易ルートであった遣唐使によってもたらされていました。ところが、894年菅原道真の建言によって遣唐使派遣が廃止されたのです。これによって、大陸からの文化招来が途絶したというよりは、むしろ、民間における交易活動が伸展していくようになります。朝廷は、廃止以降、民間交易の管理所を大宰府におきます。政府の役人である交易唐物使が、陸揚げされた招来物のなかから必要なものを買い上げるのです。民間における交易の活気は、六浦港にも引き継がれました。日本と中国の関係で云えば、むしろ都市が港湾で結ばれたことで、より一層の活況を呼んだのでした。事実、鎌倉時代後期の禅僧の日中往来は連年にわたっていることが記録に残っています。当時、最高の知識階級であった禅僧の招来は、唐物唐絵装身具衣服食品加工など広範に及び、六浦港は先進文化日本への流入窓口としての機能していたことがわかるのです。
 この当時の書画を中心にした文物が、保存されているのが金沢文庫です。称名寺市民の森の一画にあります。
 金沢文庫は、称名寺草創と同じ北条実時が数千巻に及ぶ和漢の典籍を蒐集保管したものです。明治期に県の図書館として引き継がれ、現在、中世の歴史文書・美術・宗教の貴重な資料館として神奈川県の施設として運営されています。宝物のなかでも宋招来青磁の花瓶、青磁壷は一見の価値があります。
 八角堂広場に立ち目を閉じると頬をなでる浜風が海の向こう中国大陸杭州への誘惑にも思えるのでした。

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