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川越に遊ぶ

小江戸

 河越城(中世期「河」の字があてられていた)の片鱗を見たかった。
それで、川越にいった。
 JR川越駅から西武新宿線本川越駅に続くクレアモールは、小売店が軒を連ね、原宿の竹下通りのように賑やかだ。最近話題になっている駅前商店街の不振は川越にはないようだ。
クレアモールと並行して走る中央通を北へ進むと蔵の町並みがどんとあらわれる。

 女性のグループや家族での行楽できたと思われるグループが、明るい声ではなししながらすれ違う。駅頭でいただいた観光マップ「小江戸川越見る遊ぶ」から引用する。
 「蔵造りは類焼を防ぐ為の巧妙な耐火建築で、江戸の町屋形式として発達したものです。今の東京では見る事ができない江戸の面影をとどめています」蔵造りの商家がいまなお商家の現役として商売している。この蔵の町並み通りだけでなく、路地を入れば、昭和時代戦前戦後建築と思われる商家で雑貨屋や飲食店を営んでいる家にいきあたったりする。川越市民全体の歴史なり景観保存への意識の高さがうかがえる。

鎌倉道上路

 鎌倉から武州を越え、上州そしてはるかみちのくに征夷する道は、上州源氏新田氏にとっては、鎌倉攻めの攻略の経路であった。1333年、時代は鎌倉幕府陥落に向かっていた。
鎌倉攻めの新田軍、六万余騎を従えて「上路(かみみち)より入間川へ向けらる。これは水沢を前にあてて敵の渡さんところを討てとなり。承久よりこのかた、東風しづかにして、人皆弓箭(ゆみや)をも忘れたるが如くなるに、今日はじめて千戈(せんか)を動かす珍しさに、兵どもことごとしくここを晴れといでたちたりしかば、馬、物具・太刀・弓、皆照りかがやくばかりなり」(「太平記第十巻」新潮日本古典集成)
 この「上路」こそ、鎌倉道上路である。川越小手指から南下し、武州相州を切り分ける境川左岸をうねうねと相模原、小和田(町田)と抜けて、瀬谷(横浜市瀬谷区)からは、境川とともに藤沢江の島に達し、鎌倉に入る幹道である。現在の国道16号線、国道246線との交差点から以北が、上路に沿っている。

 時代は、くだって戦国期、戦国大名の小田原北条氏が、上州の攻略拠点として、関東管領上杉朝定を駆逐して河越城を奪った。1537年の初春である。台頭する戦国大名へ、旧勢力上杉連合軍が総力を結集して挑んだのが河越城包囲であった。河越の地形は、入間川が半円の弧を描くように、台地をとり囲む。弧の外側は入間川の低湿地であり、水田がひろがり、稲作には絶好の地質であった。一方、水田は、戦争になれば、泥田が足をとり、騎馬の走行をさえぎり、いわば堀の役割も果たしたであろう。
 三代目北条氏康を大将とした相州武州の精鋭三千の兵団は、上杉憲重、朝定、古河公方晴氏の包囲軍六万に対峙するのであった。世に言う河越夜戦である。

難波田弾正、古井戸に落ちる。

 「管領の勢は小田原衆をあなどり油断しければ、俄(にわか)にあわてふためき懸合(かけあい)けるが、小田原勢四方に馳入り、前後より切て入る。氏康は(中略)鑓(やり)を投入々々十文字にかけ破り、巴の字に追廻し、太刀の鍔音矢叫(つばおとやさけび)の声、天地を轟(とどろか)し、前後に入乱れ左右に散して責戦ふ」(萩原龍夫「北条資料集・北条記」人物往来社)戦場の様を引用した。
 市立博物館は、河越城の旧本丸のそばにある。展示フロアーに入ると河越城の大ジオラマが目を奪う。引用した箇所を反芻しながらジオラマに見入ると、戦場のざわめきがわきあがってくるような錯覚に陥る。城は、近世の石垣を積み上げ、白壁の兵、天守閣をいただいた秀麗高層のものではない。入間川から引き入れた水をたくみに張り堀をはりめぐらし、土塁の堤でかためている。山城から平城への過度期のつくりなのだろう。
 博物館の向かいに本丸御殿(写真)がある。観光マップの解説。「・・・・・(河越城の)大部分が住宅地や公園となってしまいました。現在は1848年建造の本丸御殿の玄関と大広間が残り、往時を偲ぶことができます」
 本丸御殿前に三芳野神社。隣接して野球場がある。甲子園地方予選で高校生が、熱血の覇を競う舞台である。

 河越夜戦、戦闘の結果、上杉憲重は落ち延び、後越後長尾景虎の懐に入り、上杉朝定は討ち死、古河公方晴氏は北条に下る。先に引用した「北条記」、河越の戦いについて書かれた文書としてはもっともまとまっているものとされているが、「太平記」張りの文学的表現に隠れて、戦術展開については、記述が簡明であったり、書かれていなかったりしているところが多い。研究者によっては、「夜戦」ではなかったのではないかと疑問を呈するむきもある。そんな記述にあって、関東管領軍難波田弾正についてだけ、末期が具体的に記されている。
「弾正は燈明寺口の古井戸へ落ち水におぼれて死去」
その燈明寺、現在の東明寺にいってみたいと思った。

 川越市宮下町にある。蔵の町並み通りをそのまま進むと東明寺参道の入口になる。参道といっても、かつてそうであったろう、いまは普通の路地である(上写真)。参道に折れずにいけば、ほどなく入間川にかかる東明寺橋になる。橋を渡った先には、この頃水田が広がっていたか、湿地原野であったろう。
 戦記物の作者は、身を鴻毛の軽きにおきと表現して武勇のあっぱれをほめたたえる。当時の習いとしては、自殺であれば、腹をきるだろう。または降伏して敵陣にくだるということもあるだろう。「古井戸に落ちた」ということから想像すると、難波田弾正は追い詰められていたのだろう。入間川湿原そばの燈明寺に馬を駆け入れ古井戸に身を潜めていたか、あるいは誤って転落したか。どちらにせよ事故死である。弾正は、松山城の主であり、関東管領軍の枢要な武将である。だからこそであろうか、そうであったもなおというべきか、身を鴻毛のように軽く扱う武勇を持ち合わせていなかった。戦国の世にあって、最後の最後まで、生きながらえようとしていた。その正直さこそむしろあっぱれといいたい。馬上、払暁の光に、入間川は見えたろうか。その先の湿原に希望の道がのぞめたのだろうか。
 東明寺、時宗、藤沢清浄光寺(遊行寺)の末寺、遊行一遍聖人によって開山されたと伝わる。小江戸川越の観光コースには入っていない。遺跡史跡としての観光寺ではなく現役の寺院であるのが、すぐにわかった。新編武蔵風土記稿(1830年完成)によれば、古井戸を埋めてそのうえに塚をきずき、稲荷諏訪天満宮三社をまつったという。三社のうち諏訪明神は、「難波田が霊を祀りしなりと云々」とある。武蔵風土記稿の書かれた文化文政期には、塚があったということだ。寺をのぞきながめまわしたが、塚の案内もないし、それらしい形状もなかった。ことあげして観光客をよびこむよりは、現役寺院としてあることが、中世の勇者を弔うにはふさわしいことなのかもしれない。
 帰路、蔵の町並みをあるきながら思った。
 中世の痕跡、偲ぶよすがが少ないというより、目に入る風景から消えているのではないか。観光客をひきつける壮麗な蔵は、古くて近世、明治期のものである。近世、川越は舟運、街道の要衝にあり商業都市として殷賑をきわめた。江戸幕府は酒井、松平など譜代家系から藩主を送った。建築物は、そのような時代の豪商の証でもある。見える中世の歴史的遺産は、近世現代繁栄する川越の地層の下に埋もれているのかもしれない。
 賑わう小江戸川越のにぎわいに戻っていった。

参考資料
萩原龍夫校注「北条史料集」(人物往来社)
峰矢敬啓「鎌倉街道III」(有峰書店)
「新編武蔵風土記稿」(雄山閣)

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