お問合せ

朝青龍に寄せて 〜杜世忠のはなし〜

 大相撲には本場所のほかに地方巡業があります。そのために、力士は、観客の前で勝負する、桧舞台にあがらなければならないので、とても忙しく、過酷であるということが、従来指摘されているところです。ことに、頂点にいる横綱、大関への重圧は大変なものがあろうと思われる。
 地方巡業のなかでも藤沢場所は、横綱朝青龍にとって、ほかの地方とは違ったものであったであろう。地方巡業で藤沢にきた折、必ず立ち寄るのが藤沢市片瀬にある常立寺である。これは、そのつど新聞の地方欄にたいてい掲載されるので、知っているひとは多いだろうと思う。

 常立寺に何があって、立ち寄るのでしょう。
 文永の役、つまり第一次元寇の翌年(1275年)4月15日、元国フビライ汗の使いが、国書をたずさえて長門の室津(現在の山口県下関市)に上陸しました。室津におりたったのは、文永の役で戦場となった博多を避けたといわれています。博多は、いまだ戦闘の余燼さめやらず、防御の備え、防衛の兵が、いるという緊迫状態にありました。国書には、宣戦布告書ではなく、降伏を求める文書とされていますが、その意味は一年前の戦争を外交交渉で解決しようとした内容であったと思われます。だからこそ、武器を携行しない文官5名だったのです。
 構成は杜世忠(34才、モンゴル人)を代表、正使として、副使に何文著(38歳・唐人) 計議官撤都魯丁(32歳・ウイグル人) 、書状官果(32歳・ウイグル人) 、通訳に徐賛(32歳・高麗国人) です。
 文永の役では、戦闘の最前線に高麗人があてられたといいます。ベトナム戦争で前線に黒人、ヒスパニック系の人が多く投入されたのと似ています。これは余談。高麗人には日本語に堪能な文官がいたのでしょう。
 長門の役人は、一行を元国の諜者上陸と報告します。
 中央政府の鎌倉幕府からの指示に従い、一行は、まず大宰府に送られ、しばらく逗留した後、鎌倉に護送されます。ここまでの段階で、既に国使に対する接遇とは程遠いものであるといえます。贔屓目にみて、それまで海外の国との戦闘も初体験ならば、講和交渉という外交的決着などもまるで知らない稚拙さです。鎌倉入りが8月末、夏の暑い盛りであったでしょう。幕府の最高権力者はこの時、執権北条時宗でした。時宗は、元の国使一行、斬首の断をくだし、9月7日、処刑されました。当時、幕府の処刑場は、龍口(たつのくち、現在の藤沢市龍口寺)にありました。なきがらは周辺の真言宗寺院に葬られました。
 4年後、周福を正使とする使者を送りましたが、これも一行全員大宰府で斬首されました。元使一行処刑という国際慣例を無視した日本の蛮行にフビライ汗は、激怒し、このことが第二次の日本攻撃、弘安の役(1281年)の原因のひとつになりました。
 哀れをとどめるのは、杜世忠とその一行です。あまりの扱いに、再び故郷の土を踏めないかなしさ、故郷の妻や家族への去来する思いを歌いこんだ辞世が残されました。

 出門妻子贈寒衣
 問我西行幾日帰
 来時儻佩黄金印
 莫見蘇秦不下機

 常立寺には彼らを供養したとされる五輪塔と、元使650年記念に建てられた記念碑があります。2007年3月1日モンゴルのエンフバヤル大統領来日の折りここを訪れ、モンゴル式にハタクという青い布を供養塔に巻いて供養しました。
 日蒙交流史のなかで、モンゴルの人々にとって、特に思いの深い場所なのです。

 いま、朝青龍を非難する言説の中で。相撲の心技体のうち「心」ができていないという
のがあります。その「心」というのが、日本人特有の儀礼や心情を押し付けているとしたら悲しいことです。日本相撲協会が、外国人力士のスカウトは入った段階で、「心」という部分に国際的な視野でみなければならないという覚悟があったのでしょうか?外国人力士を迎え入れるにあたって、その人達にたいする故郷の文化風習への理解と敬意の心を迎え入れる側が、同時にはぐくまなければ、先の日本の歴史で苦い経験をした日本文化の押し付けになってしまいます。
 今回の朝青龍問題で克服しなければならない課題は、朝青龍本人以上に日本相撲協会のみならず、日本人全般にあるような気がしてなりません。

(この項は、特に引用を示さなかったが、ウィキペディアから「杜世忠」の項などを参考にした。)

資料として追記

北条九代記巻第十(増淵勝一現代語訳)教育社より
「健治元年(1275)に蒙古の使者(杜世忠ら)が長門の国室津の浦にやって来たのを、八月に関東へ送った。鎌倉幕府の決定では「ここ数年、度々の使者を派遣してわが国の地形・風景を見て、戦術の手段をめぐらしているものとみえる。今後はたとえ朝貢の使者があるといっても生かして帰すべきではない」として、9月7日に蒙古の使者二人を龍口に引き出して首を刎(は)ねさらし首にした。」
同書注釈
「史実では弘安2年(1279)7月29日に元使周福らが来朝。これを博多で斬っている。」

ホームページ「元寇長門襲来説」から引用。(HPURLはリンク)
「鎌倉遺文11929「関東御教書案(東寺百合文書ゐ)」には次のようにある。
蒙古牒使来着長門国之時、地頭御家人護催促所々事、甚無其謂、可弁申所存之由、可令相触之状、依仰執達如件、
建治元年六月十八日
武蔵在判
相模守在判
武田五郎二郎殿御方」
* 原出典は竹内理三編『鎌倉遺文(16)』(東京堂出版1978)
* 「蒙古牒使」の「牒」とは諜者、スパイの意味。現地報告の段階で予断があったこと
  をうかがわせる。(*は引用者)

 映像設計シアター 一覧へ戻る

 ご意見・ご感想は、こちらに書き込んでください