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忘れられたグリーンハウス

藤沢市広報番組「ウイークリー藤沢」
特集「藤沢の歴史を訪ねて 善行 グリーンハウス物語」(1994年)
著作・藤沢市、演出脚本・清水照信 (25分)を基に文章として再構成した

藤沢カントリークラブ

 アントニン・レーモンド設計建築の彼の建築歴からすれば特異な建築物が、朽ちるにまかせている。その建築物を人はグリーンハウスと呼ぶ。神奈川県藤沢市にある。
 戦前建てられたゴルフクラブハウスとしては、現在残っている唯ひとつのものである。
にもかかわらず人々の記憶から遠ざかり、 保存を願う強力な運動もないまま、ほぼ放置と言ってもいい状態が続いている。

 どこにあるのか?
 国道藤沢町田線、古くは滝山街道といわれた。旧国道1号線、元の東海道と交差する白旗交差点が起点として北に向かうのが滝山街道である。白旗神社をすぎ国道1号線の橋下を抜けると急峻な坂道になる。この坂道の左は高台になっている。地元の人は古くから御殿山と呼んでいる一帯である。その一帯に占めているのが南から聖園(みその)女学院、急傾斜の坂が終わったあたりが学園の正面入口になっている。隣接して県立教育センター、県立体育センターと続く。
 この県立体育センターの敷地中央に洋風建築物がある。これがグリーンハウスである。グリーンの瓦屋根が目を引く、車寄せロータリーを入ると建物入口に合宿所と墨書された看板がかかっている。
 歴史を振り返ってみよう。

 昭和7年(1932)ゴルフ場、藤沢カントリークラブが開設された。そのクラブハウスがグリーンハウスだ。屋根瓦が緑のタイルであったところから通称グリーンハウスと呼ばれた。
 藤沢カントリークラブは、86万平方メートル(よく使われる東京ドームでいえばおよそ19個分)の広大な面積を持つ、いかに広大であったか、現在の状況から具体的に言えば、みその女学院全域、県立スポーツセンター全域、善行駅西口高台のすべて、いまは一般の住宅地となっている亀井野方向、現在の藤沢町田線を越え、旧道の際までである。ゴルフ場施設というのはだいたいが広い敷地をかかえている。それにしても戦前、まだ庶民にゴルフというスポーツが浸透していない時代、これだけの本格的敷地を領したことに驚嘆する。そのすごさは、同時期、周辺部に開設されたゴルフ場を比較してもわかる。

藤沢CC 総面積86万m2 out3298yd. in3247yd.
相模CC      56万     3232   3405
小金井CC    50万     3314   3425

 「日本ゴルフ60年史」によれば「コースは、きわめて眺望がよく、一方には富士山を眺め、・・・・・・・一方には江の島、さらに三浦半島から相模湾を遠望するほか、コースもまた、雄大なスロープに富んで、当時関東において環境最もよろしきを得たコースの一つ」といっている。
 コース設計は赤星四郎(1895−1971)を主任とした赤星六郎、田中善三郎の三氏。クラブハウスの設計をアントニン・レーモンド(1888−1976)がおこなった。
ふたりのコンビは既に、朝霞CCで組まれている。朝霞CCは、日本発の本格的イギリス式コースである。コース設計イギリスから招聘したアリソン。そのコース設計建設委員に赤星四郎が加わっている。
 コースは18ホール、アウトコース3232ヤード、インコース3405ヤード、パー73.現在の地形をみてもわかるが、起伏に富んだコースは、プレイヤーにとって満喫できるコースであっただろう。グリーンハウスから西、善行駅に向かうなだらかな傾斜地から、晴れた日には富士山を眺望できるという、東京近郊としては絶好のロケーションであった。

赤星四郎

 赤星四郎の名前は、日本ゴルフ史には、アメリカのゴルフを移入した草分けとして必ず登場する人物であるが、一般にはあまり知られていない。赤星が藤沢CCのコース設計にとどまらず、その運営にも多大な影響力を行使し、一級のゴルフ場として紹介する役割をになったといえる。いわば、コンサルタント的役割を果たしたのである。

 赤星四郎について書かれた書物が少ないので、少し立ち入って記しておく。
 赤星四郎の父の赤星弥之助は、鹿児島薩摩藩の郷士の家に生まれる。神戸港築港で実業界にデビュー。アームストロング社とエージェント権をとり、日清日露戦争で日本のアジア覇権へ向けて軍備増強の勢いはなはだしい日本政府を相手にアームストロング砲や鉄砲の取引を行い、巨財をなす。
 弥之助四男が四郎である。明治28年東京神楽坂生まれ、麻布小、中学を卒業後大正2年(1913)渡米、ローレンスビルハイスクールを経てペンシルベニア大学に学ぶ。大正10年(1921)帰国。同年徴兵、1年の兵役につく。近衛中尉で除隊。大正12年(1923)スタンダード石油入社。帰国以来ゴルフに打ち込む。大正14年(1925)スタンダード石油退社。ゴルファーとして活躍。大正15年、日本アマチュア選手権優勝。昭和2年(1927)第一回日本オープン4位、第二回3位。同年霞ヶ関CC顧問。この頃、武蔵野CC、藤ヶ谷CC、霞ヶ関CC、それぞれのコース設計を行う。昭和7年(1932)開場の朝霞CCに関わる。この時、アリソン設計のコースに多大な影響を受ける。その反映が、相模CC、我孫子CC、福岡CC、そして藤沢CCである(前述)。
 昭和9年来日したアメリカのホームラン王ベーブルースは、赤星への表敬の意をこめて、朝霞CC、藤沢CCでプレーする。

 戦後、藤沢CC内にある赤星の別荘を鵠沼に移築し、住居とする。コース設計家として復活、福岡CC、箱根CCをてがける。以後、戦後のゴルフブームの波に乗り開場するゴルフ場の多くのコース設計を行う。富士CC初代社長就任。富士CCは昭和30年に仮オープン、33年に開場。
中村兼吉プロをはじめ国際級のゴルファーを育成した。中村兼吉は、赤星の紹介で藤沢CCのヘッドコーチとなり、藤沢CCをホームグランドとして成長し、日本のトップグルファーの仲間入りをした。
赤星は、昭和46年5月5日、鵠沼の自宅で逝去、76才であった。(早瀬利之「ゴルフ翔ぶが如く、赤星四郎、六郎兄弟の生涯」廣済堂出版より)

グリーンハウス

 藤沢CC発会式は、1932年(昭和7年)5月開催された。1932年というのは、前年中国大陸では中村大尉事件、万宝山事件を経て関東軍による柳条湖の満鉄線路爆破事件で満州事変がはじまる。翌年1933年日本が国際連盟を脱退するという。国内は平和ながら中国へは膨張の鉾先が突き刺さり始める。そんな時代であった。
 発会式の出席者のなかから著名人を拾うと、朝香宮ご夫妻、久邇宮ご夫妻、遠藤県知事などが参列した。このイベントが一地方のものではなく、ゴルフ界あげての期待を込めたものであったことがうかがわれる。藤沢CCは、小金井カントリー、相模カントリーとならぶ名門クラブとしてデビューした。

 ゴルフ場の解説に手間取った。いよいよ、テーマのグリーンハウスの説明をしよう。
 建設の経緯については、「日本ゴルフ60年史」にくわしく載っている。
 「倶楽部ハウスは、アントニー・レーモンド設計事務所に委嘱して、スペイン風の優美な鉄筋コンクリート三階建延446坪がつくられたが、これに要した総建設費は、当時の事業目論見書によると、総計60万円で、このうち42万円が土地購入費、10万円がコース土木費、5万円が倶楽部ハウス建設費となっている」
 建設費の5万円を現在の貨幣価値に換算すると推定5億円の建築費が投入された。一見、スペイン風でありながら、骨組みは日本風という、レーモンドの他の作品と比較しても、きわめてめずらしい体裁をとっている。

 ビデオの撮影では、専門家に登場していただいた。日本工業大学建築科講師の松野高久氏である。現地に立ち次のように解説している。
 松野氏、玄関を入ってすぐの階段に立って。
「(玄関を入ると)階段をのぼりまして、2階のラウンジに行くのですが、この階段室(階段で占領されている空間)は、階段(の幅)の割には小さいです。(空間と階段との対比で)階段を逆に大きく見せることによって、建物全体を大きく感じさせる効果があります」

 階段をのぼり、ラウンジを見渡して。
「スパニッシュミッション(スペイン風建築物)といわれえるゆえんは、(ラウンジの)正面上方、天井近くにあるローズウィンドウ、日本語でバラ窓といいますが、それを印象的に配置しているところにあります。これは、ヨーロッパの伝統的スタイルを踏襲したものです。
 屋根は化粧軒裏(けしょうのきうら)といいまして屋根の垂木(たるき)などをそのままむきだしであらわした建築様式です。これは日本風スタイルです」

 垂木をむき出しであらわした建築物は、日本家屋によく見られるものであるが、レーモンドが作った日本風家屋が、かつて藤沢CCの敷地内にあった。それは、コース設計をした他ならぬ赤星四郎の週末別荘である。これは、レーモンドの足跡をたずねている時に遭遇した写真でわかった。
ビデオ作品には写真をのせてある。写真を見ると、柱と梁を無駄なく組み立てた純日本風建築物で、屋根の軒裏はグリーンハウスとよく似ている。
戦後、赤星氏は、藤沢市鵠沼に、この別荘を移築して、住居としたという。今でも残っているのだろうか。鵠沼の郷土史家にたずねたいところである。

 松野氏、二階テラス一部崩れた壁の傍らに立って
「ここにコンクリートの躯体が一部露出しています。コンクリートの躯体の上にモルタルを1センチばかり塗って、その上に白いプラスター(しっくい)をほどこして白い壁面にしています。白い壁面は陰影の美しさをかもしだすのにふさわしい色で、当時は光にあたったところと影になったところで凹凸のある南欧風の感じがでていたと思います」

 スパニッシュ建築を調べてみると、一般的に壁面で天井を支えるために壁を多くとりしかも厚くする。そのために窓が小さい。外部との接点より家屋構造を頑丈にするほうを選んでいるのだろう。
一方、グリーンハウスは、日本風の柱と梁で天井を支えるという構造を持つために窓や出入り口面を大きくとることが可能になった。その結果、建物の外に広がる自然との接点をたくさん持つといった構造になっている。グリーンの屋根瓦は、スペイン瓦と呼ばれるものを使用している。

 松野氏、庭に降り立ち、側面から建物を観察して語る。
「三層構造になっていまして、一階部分がアーチのついたギャラリー、二階がラウンジ、三階に窓がついていますが、それはラウンジの高窓です。大きいスケールを上にいくに従って小さくしていくというやり方、こういうデザインを我々建築家はプロポーションを刻むといいます。視覚的に高さのスケール感を出すやりかたです」

レーモンドの建築傾向から見たグリーンハウス

 アントニン・レーモンド。日本の近代建築に大きな影響を与えたのが、帝国ホテルの建築家フランクロイド・ライトです。レーモンドは、ライトのスタッフ(レーモンドは後に「右腕」といっている)として1919(大正8)年来日する。
 翌年、ライトから離れて独自の設計事務所をたて、同時に日本在住、本拠をおき建築家として活躍する。事務所に日本人の建築家が参加、あるいは支援する。レーモンド自身が綴っている。
「・・・・・・経営は赤字であった。そのころの私はフランク・ロイド・ライトの影響を強く受けていた。かれの特異な教育を余り長く受けすぎたせいか、ライトの、あえていうならば、ばかばかしいくらいの技巧主義の影響から脱しきれなかったのである。・・・・・・
そして震災直後、自分の家(レーモンド邸)を設計したときには、私は完全にライトを脱けだしていた。」(「現代日本建築家全集1アントニン・レーモンド」三一書房から「美と自然」アントニン・レーモンド)そして、様々な建築物の設計建築にたずさわる。
 太平洋戦争激化によって、離日を余儀なくされるが、戦後、再び日本に舞い戻り、東京麻布にレイモンド設計事務所を開設する。(現在、新宿区)
戦前のレイモンドの建築傾向を大きく分けると、@初期モダニズム Aヨーロッパ建築の傾向を吸収し再構築した Bヨーロッパでの建築傾向の到達点とされるル・コルビジュの方向性を発展させた。
 完成した建築物はそれぞれの時代に日本の建築界を瞠目させ、世界の建築傾向の流れに目を見張っ   た。では、このみっつの時期のどこにグリーンハウスは位置付けられるのだろうか。
 現在のレーモンド事務所の記録保存の担当者におたずねした。

こたえは、わからないという。というより、グリーンハウスは系列の中で特異な建築物であるという。その折についでに出来たはなしであるが、不思議な事に、他の建築物の図面は大切に保管されているのに、グリーンハススの図面だけがないという。
 となると時系列的に彼の建築意匠の履歴から探り当てるしかない。建築時期の昭和7年(1932)のレーモンドにとってどういう時期であったか。上記の三分類ではAの時期にあたるだろう。この時期の建築物の評価について、建築史の藤森照信氏が書かれた「日本の近代建築」(岩波新書)から引用する。
「レーモンド邸以後の作風は二つの傾向に分かれる。一つは東京ゴルフ倶楽部に代表されるピューリズムの影響の濃いもので、これはデ・スティル派に加えていい。もう一つは聖路加国際病院案。ソ連大使館、ライジングサン石油、などペレ色の強いもので、たとえば、聖路加の搭はランシーの協会の搭と共通し、ライジングサンは打ち放しの円柱といいインテリアのガラス天井の大空間といいペレのアールデコ博の劇場に想を得ている。自邸では仕上げに限られたペレー色が全体におよび、力強い構成、強靭な柱、手ざわりのある仕上げといったデ・スティルにはない実在感がもたらされた」
 「ペレ」とか「アールデコ」など専門家でないとなかなか聞き慣れない言葉が頻出するが、それぞれの傾向の詳細に興味があれば、掲載誌にあたっていただくとして。この文書に登場したアールデコ博の劇場を担当したベドジフ・ファイアーシュタインが来日して、パートナー格でレーモンド事務所に入ったというのは、フランスで注目を集めていたペレへの傾斜が深まっていくのは自然の成り行きであっただろう。それが昭和7年(1932)のレーモンドであった。
 同書によれば、オーギュスト・ペレはフランスの建築家。鉄筋コンクリート構造にふさわしい表現を探求し、壁構造ではなく軸組構造(柱と梁の架構法)とすること、地肌を見せることの二点に到達し、ペレ手法といわれた。世界の建築家が関心を示さなかったが、レーモンドだけは、耳を傾け、自邸の建築にペレの手法を取り入れた。
 この軸組構造へのアプローチの発展が、日本建築の軸組構造の研究とあいまって、グリーンハウスの基本構造へ向かったことは、明らかだろう。見た目はスペイン風でありながら、内部構造は、ペレ手法を基調とした日本建築であるといえるのではないだろうか。その融合によって秀麗にしてしかもなお実際的な建築物をつくりだしたといえるかもしれない。

レーモンドの遺産

 レーモンドの自伝から彼自身の言葉を引用しておこう。
「(建築の基本は)より単純に、より直裁に、より経済的に、心からつくることにある」
「伝統を知るべきであり、過去を理解すべきである。それなくして現在を知るのは不可能である。文化は時間を超越した理解を基本としている」
「建築には自然との近接性が重要な原則となる。日本の建築には、これが非常に顕著にあらわれている。建物の内部と外部との融合は、純日本建築の特色とさえいえる。よい日本住宅は庭園の一部とすらなっている」
これらの言葉のすべてが、グリーンハウスにあてはまるのではないだろうか。
 グリーンハウスの食堂(ラウンジ)で、コーヒーを飲みながらそう思った。内外出入り可能な窓は大きく開かれ、気持ちのいい風が吹き込んでくる。環境との接点を多く持つ、その思想が時空を越えて伝わってくる。調度品のデザインは妻のノエミ・レーモンドであった。瀟洒な家具が、中央のマントルピースのストーブを中心にゆったりとおかれていたのだろう。まぶたを閉じると白い壁に陰影を刻む太陽の照り返しがしっかりと想像できる。

 日米の戦争、太平洋戦争が、日本中のあらゆるものを巻き込み狭歪な国粋主義外国人排斥の嵐の中、日本文化にこれほど深い理解のあるレーモンドといえどもいる場所はなかった。からくも日本を脱出し、アメリカに渡った。
 戦後、昭和42年(1947)再び日本に舞い戻り、レーモンド建築事務所を開設する。レーモンドの戦後の活躍については、本テーマから外れるので、ここでは触れない。
 グリーンハウスを含む藤沢CCは、戦時中、横須加海軍施設部に徴用され、藤沢海軍航空隊司令部になる。戦後、進駐軍(アメリカ軍)に接収される。進駐軍は1年あまりで撤収。グリーンハウスは東嶺学園に所有権が移り、職員住宅として使用する。その後、藤沢市に返還されるが、市財政の逼迫から、県に移管される。めまぐるしい変遷である。結局、県は、隣接地への陸上競技場建設に伴い、選手の合宿所とした。以来、現在にいたる。
 戦前に建てられたゴルフクラブハウスとして現存する唯一の建物となった。

 実態的に、現在は、合宿所としての使用はなく、1階ラウンジで食堂が営業を続けている。食堂の経営者がかろうじてメンテナンスを続ける事で維持されている。県の所有でありながら県民の多くは、ここにこんな貴重な建築物があるなどということは知らない。知らなければ修繕保存の声もあがりようがない。いわば、市と県の行政の狭間に落ち込んでしまった感がある。一時期地元善行の住民による保存運動が起こったこともあったという。
 造形物は人が手をかけなければ限りなく土に近づく。自然の摂理である。いま、グリーンハウスは、風雪に朽ち、滅びのカウントダウンのなかにあるのだろうか。

あとがきにかえて

 映像本編「特集 藤沢の歴史を訪ねて 善行 グリーンハウス物語」の制作は13年前である。それから、ほとんどグリーンハウスの建物に変化はない、建物自体はそれだけの星霜の変化は刻まれている。本編ビデオを作る過程では、企画当初からたくさんの方々の協力があった。今後、研究する方がいるかもしれない。そのためにも資料背景を書き述べる意味もあり、また心からの協力者への感謝の気持ちをこめて、記しておく。
 藤沢市内に散在している証言者の発掘に尽力していただいたのは、文書館の担当者である。レーモンドについては、レーモンド設計事務所から懇切なご教示をいただいた。
 この文章では、戦後、グリーンハウスがたどった経緯については触れていない。いつか、機会があればまとめたいと思っている。
 文章では触れなかった部分にこそ市民との接点が多い。昭和の左翼運動史には必ず登場する理論家福本和夫氏の愛娘福本逸子氏(福本一家は戦後の一時期グリーンハウスに住んでいた)、藤沢海軍航空隊のメンバーの方々、聖園学院にも協力いただいた。
 また、取材の同道や貴重なアドバイスをしてくれたのは、評論家のいのうえせつこ氏、藤沢宿の研究家平野雅道氏、ゴルフ史に明るい本町の鈴木茂雄氏である。
 佐川伸一氏は、やんちゃ盛りの中学生時代、藤沢海軍航空隊に入り込み遊び場としていたという。その体験をもとに、当時のグリーンハウスの様子を描画していただき、ビデオに収められた。体験談も貴重な手がかりとなった。本編を作った翌年にお亡くなり今年は13回忌である。そのこともあり、今回文章としてまとめたいと思い立った。もし献辞を書くなら佐川伸一氏にささげたいと思っている。

 映像本編は、制作された年に藤沢市内で何回か上映会が開かれた。現在、視聴しようとするなら、藤沢市広報課が希望者にビデオ貸し出しをしている。

主な参考文献
アントニン・レーモンド「私と日本建築」鹿島出版会
栗田勇編「現代日本建築家全集1アントニン・レーモンド」三一書房
藤森照信「日本の近代建築」岩波書店
早瀬利之「ゴルフ翔ぶが如く、赤星四郎、六郎兄弟の生涯」廣済堂出版
藤沢商業高校「東嶺学園藤沢商業の歴史」
(「日本ゴルフ60年史」は上掲書からの孫引き)

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